【O’s Note】むち打ち症の深淵 — Whiplash

お知らせ
“ One look give 'em Whiplash ”
2025年の紅白歌合戦、aespaが歌った曲「Whiplash」の歌詞の一部です。曲の中では “ whiplash=強烈な衝撃 ”という比喩で使われています。

第76回NHK紅白歌合戦,TV画面より
実はこの whiplash、医学用語では「むち打ち症」のこと。*1
1* Gay JR, Abbott KH. Common whiplash injuries of the neck. J Am Med Assoc 1953; 152(18): 1698-1704.
衝撃で首がしなる様子が、まるで “ むち ” のようだからです。
昔の車にはヘッドレストもシートベルトもなく、硬いバンパーがついていました。
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さて、この “ むち打ち症 ”、正式な病名ではなく俗称です。「むち打ちの刑」を連想させることもあり、整形外科医はあまり使いません。
病名としては外傷性頚部症候群、頚椎捻挫、頚部挫傷などと言われます。
むち打ち症に関連する症状は4つのGradeに分類されます。*2
Grade 0:頚部の訴えがない。客観的徴候がない。
Grade Ⅰ:頚部の症状のみ(痛み、こわばり、圧痛のみ)。客観的徴候がない。
Grade Ⅱ:頚部の症状と筋・骨格徴候(可動域の減少と圧痛)。
Grade Ⅲ:頚部の症状と神経学的徴候(深部腱反射低下・消失、筋力低下、感覚障害)。
Grade Ⅳ:頚部の症状と骨折または脱臼
*2 Spitzer WO, et al. Scientific monograph of the Quebec Task Force on Whiplash-Associated Disorders: redefining "whiplash" and its management. Spine 1995; 20(8 Suppl): 1S-73S.
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交通事故の痛みが長く続く─そんな経験をされた方もいるでしょう。
むち打ち症は、レントゲンやMRIで明確な異常が見つからないことが多く、痛みの持続には「心理社会的要因」が深く関わることがわかっています。
たとえば、
・ 事故のショック
・ 仕事への不安
・ 配慮の足りない周囲からの言葉
・「長引く」という社会的イメージ
こうした要因が重なることで、痛みが長引きやすくなると考えられています。*3
*3 香川栄一郎, 堺 正仁. 交通事故によるいわゆる“むち打ち損傷”の治療期間は長いのか —損害賠償を含む心理社会的側面からの文献考証—. 共済総合研究 2017; 75: 98-121.

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ここで、ひとつ興味深い話を紹介しましょう。
「ギリシャ人のむち打ち症は長引かない」
ギリシャで行われた追突事故の調査では、事故後4週間を過ぎて強い症状を訴えた人は、ほぼゼロだったそうです。*4
*4 Partheni M, et al. A prospective cohort study of the outcome of acute whiplash injury in Greece. Clin Exp Rheumatol 2000; 18(1): 67-70.
実は、こうしたことはギリシャに限ったことではありませんでした。国によって、同じ国内でも地域によって、むち打ち症の経過が異なっていました。*5
*5 Ferrari R, Russell AS. Epidemiology of whiplash: an international dilemma. Ann Rheum Dis 1999; 58(1): 1-5.
これは制度や文化が “ 慢性的な痛みの認識 ” に影響するということを示す象徴的な例と言えます。
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aespa の「Whiplash」が “ 心を揺さぶる衝撃 ” を歌っているように、むち打ち症も、外力の強さそのものだけで痛みが決まるわけではありません。身体・心・環境が重なり合って生まれる、複雑で奥深い現象なのです。
「痛みが長引いてつらい」─その気持ちは、決して “ 気のせい ” ではありません。
身体のケガだけでなく、心や環境の影響も受けているからこそ、治療には時間がかかることもあります。
長引くむち打ち症は、痛みの奥深さを教えてくれる大切なヒントです。
そして私たち医療者にとっては、患者さんの痛みに寄り添うための視点を広げてくれるものでもあります。
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